
「令和の怪物」と言われてもおかしくない大船渡高校野球部の佐々木朗希投手。
最速163キロを投げれる注目の投手が岩手(大船渡)から誕生しました。
残念ながら花巻東高校に負け、35年ぶりの甲子園出場はできませんでしたが大健闘してくれたと思います。
決勝では、「故障を防ぐため」という監督の判断で佐々木朗希投手は投げることはありませんでしたが、地元(大船渡)は健闘を称えています。
そんな注目を集めている佐々木朗希投手ですが、彼もまた3.11の東日本大震災で父を亡くされています。
彼が経験した震災経験からの「あたたかい言葉」が大船渡が地元の私にもしっかり届いています。
佐々木朗希、大船渡高校野球部から勇気をもらった

3058日前、東日本沿岸を襲った大津波は、三陸にも数え切れないほどの、深い悲しみをもたらした。陸前高田で7人家族で平和に暮らしていた佐々木家にも。
母陽子さんは仕事で隣町の大船渡にいたが、浸水で立ち往生を余儀なくされた。親子が会えない夜、不安が募る。翌朝5時には車で陸前高田へ出発。普段は30分なのに、3時間近くかかった。高台の施設に避難し、一夜を明かした3兄弟。再会に涙した。
なのに、7人がそろわない。覚悟した。大船渡の親族の家での、胸が張り裂けそうな5日間。3月16日、電話が鳴った。「見つかりました」。電話口の言葉を知った朗希少年が「見つかった!?」と目を見開いたことを陽子さんは今でも覚えている。大人ならすぐに悟れる「見つかりました」の真意。当時9歳の朗希には、7文字の深さを察することはまだ難しかった。
いつもニコニコと朗らかで、3兄弟を愛し、愛された父功太さん(享年37)が亡くなった。功太さんの母である、朗希の祖母も。祖父はいまだ行方不明のままだ。自宅は流され、仮設住宅の抽選にもなかなか当たらなかった。陽子さんは「(長男の)琉希が父親代わりに弟2人の面倒を見てくれて、子どもたちはいつの間にかどんどん成長してくれました」と穏やかに振り返るが、この8年強の苦労は想像を絶する。
懸命に働きながら、子どもたちが野球を頑張る姿に励まされた。寂しさもあった。仲間は父親がビデオカメラを回すのに、うちは。それでも母は肉眼で見たかった。功太さんの分も。「高校に入って、周りのお父さんやお母さんが試合の写真とか映像をくれるんです。本当にありがたくて」。いつまでも残る成長の証し。4回戦のホームランボールを関係者から渡されると、いとおしそうに抱きしめた。
「大きく育てたい」と早寝を促した子どもたち、特に次男の朗希は、181センチだった功太さんをはるかに超える体格に成長した。毎朝、190センチの背筋を伸ばし、父たちの写真に「行ってきます」と声をかけ、元気に学校へ向かう。母の思いがこもった弁当を、カバンに詰め込んで。
敗れた今、朗希に何と声をかけるのだろう。「髪、伸ばして…かな」。評判の仲良し夫婦だった。「私も旦那もこういう時にふざけちゃうんです」と笑う。でも。「きっと旦那も『よく頑張ったな』って言うと思います」。もうすぐ功太さんの誕生日。見上げた青空には、入道雲が伸びていた。【金子真仁】 引用元:日刊スポーツ
佐々木朗希投手も震災で大切な家族を亡くした多くの方の一人。
そんな彼からの発言は、「地元に貢献したい」というアツい気持ちを受け取ることができます。
佐々木朗希投手は毎朝、父たちの写真に挨拶をして登校するやさしい人柄。
そんな佐々木朗希投手を、あたたかく見守り、育てた家族の皆さんの人柄も垣間見ることができます。
【大船渡高校野球部の最終的な成績】
佐々木は今大会4試合に登板、29回を投げ9安打2失点(自責2)、7四球、51三振(全29回で奪取)。総投球数は435。最速は4回戦でマークした160キロ。前日24日の準決勝では9回を完投、129球を投げた。 引用元:日刊スポーツ
地元「大船渡」の人達も勇気をもらっています

震災から8年。
年月が経つにつれて、震災の報道の減少と共に記憶も薄れていく中で、佐々木朗希投手と大船渡高校野球部の活躍で今一度、全国の注目が被災地に集まっています。
そんな大きなキッカケを与えてくれた佐々木朗希投手と大船渡高校野球部には、地元民である私をはじめ、多くの方が勇気をもらい、感謝をしています。
将来的には、「プロの道」に進むと思われている佐々木朗希投手の今後にも、期待したいと思います。
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